悔い改めよ!天の御国が近づいたから

【1】世界のキリスト教国家は悔い改めよ

 悔い改めよ!

 聖霊なく人間の理性だけで行なった結果として霊的無知をもたらし、闇を増したキリスト教に、神 (創造主) は、ぶどう園をしもべに任し外国に行き、帰って来て収穫を求める主人のように、この時代に向け厳しくその責任を問うておられる。

1. キリスト教はこの世にどんな役割をするのか

 神は、今もこの世を創造しておられる。キリスト教はその中心に立って、この世を光と塩によって創造して行くのである。教会は天から信仰という宝を授けられたゆえ、この信仰を持ってこの世を新しく創造してゆくべき責任がある。即ち、信仰は、主の御心に合わせ、信仰によってその御心をその通り成就することである。“御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ”と、主の祈りにあるように、この世が設計、構図したままに教会が後について処理するのではなく、教会は、聖霊による信仰によって神の御心を設計し、神の御心どおりにこの世を引っ張って行く先駆者的な役割をしなければいけない。

 この世を美しく培い、造って行くのが教会の使命であり、主のしもべたちの重要な使役であり、本分なのである。

 今日のような世界の政治、経済、社会全般の矛盾した体制を作り出した原因は何であったのか?最小限こうした形態の世界経済構造を作ってはならなかったのではなかったか?少なくとも中世から現代に至るまで、教会が、聖書で語る‘分配と分かち合いの法則’‘植えて刈り取る法則’をもう少しきちんと教え、美しい世の具現のために、準備し備えた10人の娘のうち、5人の娘となっていたら(マタイ 25:1-13)、共産主義のような思想が生まれることはなかったであろう。

 キリスト教国家であるヨーロッパで、産業革命を通して経済的豊かさをもたらしたが、‘分配の法則’がきちんと守られず、かえって貧富の格差が深まるや、疎外階層により共産主義思想が誕生する要因となった。この世がこんな境地にまで至っていると言うのに、誰か一人でも私のせいだと言ったしもべたちがいたのか。このようにキリスト教が腐敗堕落し、教会が教会としての役目を果たせないことで、この世は彼ら自らの自救策として何らかを作り出し、今日にまで至った。

 主のしもべたちが神の御心を悟り、命を尽くして使命を完遂していたなら、今日のような世界体制と構造ではなく、美しい世に変える事もできたであろう。今日の混乱する世界政治、経済、教育等、社会全般のあらゆる制度や構造は、神無くして人間だけの知恵で全てを計画し対処して来たことに対する、神の審判と報いである。その審判は、霊においては、世紀末に価値観の混沌と混乱をもたらし、肉においては、地震、洪水、気象異変、生態系の破壊等、神の御怒りによる災いをもたらした。

 この世にキリスト教があるのは、教会から感動と感化を受け、生命の御言葉を確認させ、光へと導き出して福音化させるためである。福音化は最小限、聖書の御言葉を手本として、この世に、人生の質や方法において、美しく作り上げ、整え、この世を持続的に改善して行くことである。しかし教会は、この世に向けて影響力をきちんと行使できず、傍観し、教会がすべき役割に顔を背けてきた。

 主が願われる、この世の構図を描くと言うのは、人間の知恵から始まった手段や方法ではなく、ただ聖霊の導きに従って、聖霊が教えて下さるビジョンを土台に、心に信ずる信仰と愛の行ないによって歩むことを言うのである。しかし今日の世界経済構造は、愛は行き場を失い、ただ弱肉強食の論理による熾烈な経済戦争で、食うか食われるかの、動物の世界と何の変わりもない獣の生を生きている。

 いずれにせよ、神なくして世の知恵で成された事は、こうした矛盾した構造を作らざるを得ない。その結果、世界はこうした社会構造の下でうめき、それに伴う付随的問題、つまり疎外階級、道徳、倫理的堕落によって発生した様々な社会的問題等を抱えている。キリスト教は、これを備え防ぐことができなかったことに対し、当然その責任を負わなければならない。

 これが、教会がこの世で本来の役割を果たせず発生した全てのことに対する、負債を返す最小限の償いである。

1) 教会の暗黒時代

 二千年間教会は福音伝播と言う美名のもと、教勢拡張に心血を注いできた。ローマがキリスト教を国教と認定した4世紀から宗教改革  (1517年) が起こるまでは、世界を強権の下に置こうとする愚かな欲望に捕えられ、聖書から逸脱し、あまりにも異なった姿の教会の独裁が成された。教会は、聖徒たちが神の御言葉を心から信じ、現実を変えていき、御言葉どおりに成されていく、創造的な信仰を持つよう導いてあげるべきなのだが、彼らは強権の下で、贖罪だけが信仰の最高の美徳であると、無条件的な従順だけを強調した結果、未来に対しては何も準備できないまま信仰の暗黒時代となり、今日まで至った。

 宗教改革以後、プロテスタントもやはり強勢拡張だけに熱を上げ、今では福音の意味が何かもわからないような混乱を引き起こした。即ち、聖書とはあまりにも異なった姿の異邦宗教に変わり果て、今日にまで至った。17~20世紀、アジアおよび弱小国家は、いわゆるキリスト教国家と言う列強たちにより角逐場へと化してしまい、ほとんどは侵略と宣教が並行すると言う皮肉な現象が起こった。

2) 侵略と宣教が並行したキリスト教

 イギリスは、インドにとって如何なる存在なのか。キリスト教国家であるイギリスは、インドに対し、何をどのように行なったのか?なぜそうなるまでイギリスの聖職者と聖徒たちは傍観したのか、どんな信仰教育をしたのか。

イギリスの野望の前には、マタイの福音書5章38~45節の御言葉も無用のものと化した。

    文字通りインドは殖民国家だった。そして搾取の対象だった。教会はこれを傍観したのはもとより、むしろ共犯となり植民化の当為性を提供した。キリスト教的愛よりは、ヒンドゥー教が先にキリスト教に愛を施し  (ガンディーの‘無抵抗主義’)、キリスト教国家の支配下にありながらも、福音化どころか、彼らは依然としてヒンドゥー教国家として残っている。この時代、我々は今一度思考を転換すべきである。

 福音伝道のために神は、キリスト教国家に豊かな物質と強大な国力を下さった。しかしキリスト教国家たちは、これまで弱小国家にどんな蛮行を恣行していたのか。そうした行動が果たして聖書的なのか。福音の真意がそのように行なえと言ったのだろうか。

 神は、ヨーロッパが失敗したために、アメリカだけは真理の通りきちんと果たすだろうという期待の中で、彼らに多くの祝福を与えたが、彼らは今、神の期待を捨て去って何をしているのか。失敗したヨーロッパのキリスト教国家と全く同じ二の舞を踏んでいるのではないか?それではアメリカやヨーロッパをキリスト教国家と言う事はできない。

 しかし皮肉にも、韓国の牧会者たちは、アメリカの信仰と教育を憧憬、信頼し、もどかしくも彼らの通ってきた足跡をそのまま信じ従っている。だが我々は、彼らを羨むことも見習ってもならない。彼らが教える信仰教育は聖霊の教えではなく、人間の知恵から出たやかましい鉦に過ぎず、律法でもなく、哲学の一種に過ぎない死んだ教理である。こうしたキリスト教に対し、この時代に神は厳しくその責任を問うておられる。アメリカと西側キリスト教国家には峻烈な審判が成されるだろう。寸分も残さず全てを償わなければいけない立場に置かれている。

2. 聖霊なく教会を導いた牧会者たちは悔い改めよ

 現代教会の特色は、聖霊がなくともきちんと運営され、それでも大丈夫だと思い運行されている。まるで、両班社会(文官と武官の階級社会)で、帯飾りが装飾品としてなくてはならない必需品であるように、聖霊は、信仰をするにおいて帯に着けて歩く装飾用へと転落してしまった。説教する時には儀礼的に一回ずつ入れて味を出す、薬味程度にしか扱われていない。聖霊は信仰のための装いに過ぎず、むしろ手に余る存在にまで感じている。しかしキリスト教信仰の最高の真髄は、聖霊との交わりである (Ⅱコリント 13:13)

 愛が完成された者だけが聖霊との交わりが成される。交わりが成された時にはじめて主のしもべとしての役割を遂行し、真なる神のしもべとして使役を果たせるのである。聖霊の交わりを通してのみ、神の御心が何であり、何を望まれ、どのように歩むべきか、神が教会に望まれることが何であるのか、その御心をはっきり知ることができる。その時はじめてその御心通りに応じることができるのだ  (ルカ 10:22)

 だが現代教会は、聖霊との交わりがなく使命に当たって来た。聖霊なく教え、羊の群れを導いた結果、今日のようなキリスト教を作り出したことに対する責任を自ら痛感すべきだ。しもべが主人の声を聞かずして、果たして主人にきちんと仕える事ができるだろうか。各自の職業によって業務が異なるように、主のしもべたちの固有業務は‘聖霊充満’‘聖霊の導き’‘聖霊との交わり’である。しかし聖霊との交わりが断ち切れたしもべは‘枝がぶどうの木につながっていなければ、実を結ぶ事ができない’ように、主のしもべとは言えない。聖霊の導きのない説教や教えは、聖書をより難解なものにし、神の御心を誤解させてしまう (マタイ 22:29)

 これまで聖霊なく人間の知識だけで神の御言葉を伝え、誤った道へと羊たちを導いたしもべたちには、その行ないに応じ、神の峻厳な審判が待っているゆえ、徹底した悔い改めがなくてはならない。

 悔い改めよ!聖霊なく知識だけで神を証したしもべたちには災いと御怒りが臨むであろう。

3. キリスト教の成長障害要因である異端論を整理しなければ没落してしまうだろう

 キリスト教は、聖霊の導きと教えがなく聖書を解釈した結果、今や信仰は壊れ果て、これ以上壊れようもない境地にまで達した。十字架軍兵と言える教会は、イエス様の教えと新しい戒めが全部どこへ行ってしまったのか。それに代えて疑心や反目や嫉視で武装しているのか?彼らが着ている軍服は、イエス様の指定して下さった十字架軍兵の服ではなく、疑心の服で武装されている。誰が、十字架軍兵たちが着ていた愛の鎧を脱がせ、疑心と反目、嫉視の服を着せたのか。

 これは、キリスト教を抹殺するための徹底したサタンの魔手にかかったのである。聖徒たちは、許しと和解よりは、異端論争によって疑心病にかかり、到底、愛と信仰という目的地に到達不可能な重病にかかり、前を見ることのできない盲人のように道をさ迷い死にかけている。キリスト教は同じ兄弟同士の争いによって、一人も残る者がなくなるまで互いが抹殺し合う、凄絶な殺りく戦に突入したと表現しても過言ではない。

 使徒時代にガマリエルという律法学者が“もしその計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。”  (使 5:34-39) と知恵深く処理したように、‘異端判別’とは、聖霊の使役の中で、教える使役に属する固有権限である  (ヨハネ 14:26)。聖霊しか判別できないにもかかわらず、人間の理性の目で分別できないものを判断した結果、今日のような境地にまで至ったのである。

    兄弟をさばいてはならないという御言葉をなぜ守らないのか?

    今日のキリスト教は、異端が多いのではなく信仰がないのだ。

    教会は、異端論を言及することより、先ず信仰を教えてあげるべきだ。

 私が信じる神、私が命を捧げて仕える主、その方は、私がどこで何をし、誰と係わり合おうと、たとえ私が死の陰の谷にいたとしても、私を守って下さり、導いて下さる方であることを信じる心だけ持てばいいのだ。

 しかしキリスト教は、信仰と愛には顔を背け、異端論という内輪もめだけに重点を置いている。この争いは愛の反対の疑心から始まり、仇となって終わる。これは、ギャンブルや麻薬中毒のように、一度中毒になると断つことができない。もはやキリスト教の中では、非常に古く頑固で偏狭な思想が深く座を占め、本来のキリスト教を抹殺することで没落に向かっている。

 キリスト教をこの境地に至らせた教役者である牧師、伝道師等、指導者たちは、そこに伴う峻厳な審判があるであろう。哀痛する徹底した悔い改めがなければ、神の審判を免れることはできない。

【2】異端論争でキリスト教を抹殺させる牧師たちは悔い改めよ

  統一教会、伝道館、エホバの証人等、自分をメシアだと言う者、三位一体を否定する者等、彼らは異端だ。しかし、彼ら以外の既成教会で異端だと烙印を押された教会は、異邦宗教にも及ばないのだろうか?彼らは私たちと同じ主に仕える兄弟姉妹たちだ。だが彼らを忍耐で待ち、愛でやさしく抱いてあげるどころか、あれほどに無知粗暴に葬ってもよいと言うのか?聖書で律法学者ガマリエルが言ったように、神のものでなければそのままにしておいても自ら倒れるだろう。もしそれが神のものなら、かえって神に敵対する結果となるのだ。その良い例に、統一教会も倒れつつあり、伝道館も滅びたのではないか?

 キリスト教の立場だけで見るなら、神をちゃんと信じると言うイスラエルも結局は異邦宗教だ。彼らは神ののろいを受け無くなって当然の国ではないのか?だが彼らは、二千年ぶりに神の奇蹟的な役事で国を取り戻し、6日戦争を通し世界を驚愕させた奇蹟がある。今日でも政治、経済、科学等、様々な分野で最高の頭脳たちが現われ世界を揺るがし、屈強な経済圏を握っているではないか。これは誰が何と言っても神が与えた祝福であることは否定できない。これによって、彼らなりの選民国家だと言う自慢心と高慢を持たざるを得ない。

    キリスト教は、唯一最高だと言いながら、果たして何か掲げるものがあるのか。

    キリスト教国家だと言うヨーロッパの国々を見てみよう。

 ドイツは宗教改革を起こしたキリスト教 (プロテスタント) 国家でありながら、如何にしてヒットラーのような独裁者が現われ、世界を血に染めたのか?その時、ドイツの教会は何をしていたのか。ヒットラーの狂った行動を、身をもって遮った聖職者が幾人いたのか!

 またフランスは、ナポレオンが英雄心に燃え世界を制服しようとした侵略者であるにもかかわらず、彼らはその侵略者を自慢し、英雄として押し上げ、それが恥ずかしい行為であることすらわかっていない。むしろフランスのキリスト者たちは、他の国を侵略することも盗みであることを、かえって正当化、合法化し、彼を英雄視すると言う崩れた良心は何なのか。それを分別できず、今も英雄と言う称号をつけるキリスト教は何なのか?ナポレオンが戦争を起こそうとした時、真理を知る聖職者なら当然、命をかけて反対し、阻むのが道理である。だが、むしろ教会は戦争の当為性だけを提供した。

 このように、数多くのキリスト教の恥ずべき歴史的事実を見るとき、果たして何が異端であり、何が正統だと言うのか?ドイツは宗教改革を指導した国として、ルターの‘ただ信仰によって’と主張した言葉が光を失った。最高の教理と体系の中で教育をしたとは言うが、始発から間違ったキリスト教教育の不才が、結局矛盾した政治を作り出した。

    現代キリスト教の姿を見ようと思うならイスラエルを見よ。

    律法の中で全国民が催眠にかかっている国。

    選民思想と言う王子様病にかかり、まるで地球上の全ての国はイスラエルの為に存在するかのように錯覚し、異邦国家たちを殺しても、のろっても、奪い取っても罪とはならず、何をしてもかまわないと言うような、悔い改めが全くない国。

    世界平和を破り、紛争の素地を常に抱えている問題の国。

    譲歩と平和的方法で解決しようとする意思が全くない国。

    いつかはメシアが来て、自分たちだけを救うと言う荒唐無稽な夢を見ている、夢うつつ状態の国がユダヤ、イスラエルだ。いつになったら夢から覚めるのか…

    このようなイスラエルと、現代キリスト教とは、何の違いがあるのか?

    もう、井の中の蛙的な、意固地なキリスト教式世界観から脱するべきだ。視野を広く開き、二千年間の眠りから覚めなければならない。

    では、韓国キリスト教の現実はどうであろうか。

    韓国キリスト教もやはり、全体の流れを見ることのできない井の中の蛙だ

    いつからなのか。異端だと烙印を押された教会に対しては、どんな風に分別して処理してもかまわず、どんな横暴を犯しても神は喜ばれるだろうと言う漠然とした思いで、異端ならば亡くしてものろってもかまわず、これがまるで神に一番きちんと仕える最高の信仰者のように教育している。

    神は、“わたしの民は知識がなくて滅びる”と嘆かれた。なぜ羊の群れたちをして罪を助長させ、目の見えなくなった牧師たちの欲望に、偶像の供え物とならなければならないのか?

    これが、彼らが理解している真の愛なのか?

    このように羊たちに間違った教育をしている教役者たちは、徹底した悔い改めと痛悔が必要である。再び異端論を助長し、キリスト教を破滅に追いやる罪悪を恣行してはならない。

    韓国教会は、結局異端論のために没落した。

    神の真の御心は、どんな問題であっても武力や人本的方法ではなく、ただ信仰の祈りと愛によって一貫し、神の救いが現われるのを待つ姿勢、これが聖書的姿勢である。このまま行けば韓国教会の未来は、没落したアメリカやヨーロッパのキリスト教のようになるだけだ。今、牧師たちは目を覚まし、神の真の御心が何であるか悟るべき、覚醒と悔い改めが必要である。

【3】韓国キリスト教は悔い改めよ!

 韓国キリスト教は、神の御言葉を、聖霊なく理性と知識だけで理解させようとした事が間違いだ。信仰とは理解して信じるのではく、ただひたすら信じることだ。聖書は、“見ずに信じる者は幸いだ”と言ったが、人は神の御言葉を理性的に考えた後、理解できればようやく信じようとする。

 一般的に信仰教育は理性に対した教育である。まず理解を要求するため、彼らを理解させるためには知識的論理が必要だと主張する。こうした名分でキリスト教は理性の枠の中に神を押し込めようとする。御言葉の中では、神の生きて働かれる力が一緒に出なければならないのに、こうした合理的な理性の枠の中でどのように神の役事が起こり得ようか?

 一方、聖霊が役事する教会は、自身が体験した恩賜だけをもって聖霊の全体像であるかのような偏見の中で、自分が知っている主観的なものだけが信仰の全てと掲げ、自分の色合いと同じでなければ、他人のものは全く認めようとしない偏狭の内に捕われている。他人のものを受け入れる謙遜さがなく、御言葉を守るべきだと言う美名の下に、他人のものは無慈悲なほどに踏みつけ、暴力的で殺人的行為をためらいもなく恣行しているのが、今日のキリスト教の現実だ。また、そうすることが神をきちんと信じる方法であるかのように、誤った教えをしている教会、そうすることだけが信徒を奪われない方法であり、牧会を生計の手段として生活を営もうとする牧師たち等、今日の韓国教会はこうした多くの問題点をかかえている。

1. 韓国牧会者たちの実情

    牧師となる条件は何なのか

 誰でも神学校や大学院だけ卒業すればすぐに牧師になれると思っている。しかし神から各自召された証もなく、簡単に牧師になれると思うなら、それは相当な誤算である。仮に召されたとしても、途中で契約違反をすれば破棄される。だが、多くの人たちは、一度神から召されれば、その契約は永遠に続くと錯覚している。そうであれば、使徒パウロが、常に用いられ捨てられないために恐れたと言うのは、どういう意味なのだろうか?これは、召されてからも神から捨てられることもある、と言うことを説明してくれているのだ。

 それで“私は自分の体を打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者とならないためです”  (Ⅰコリント 9:27) と言われたのだ。

 神の召しに対する確証もなく、名誉という看板だけを得るために、使命ではなく牧師という職業を選ぶことで、一定の教育さえ履修すれば牧師になれると言う様な思い違いをしている。

 このように、韓国教会牧会者たちの質が、見るも無残に落ち込んだ理由を率直に言えば、1960~1980年代まで、聖霊の役事の中で恵みを受けた人たちの預言や、又は父母や妻の懇切な望みと勧めに勝てず、あるいは余儀ない環境による生計の手段として、時には華麗な名声だけに憧れたあげく、牧師の道を選んだ人たちもいる。現在こうした牧師たちが韓国教会の大部分を占めているからだ。神との主従関係を無視したまま、他意と環境により無理やり選択した牧会者たちに、果たして真の使命感がどれほどあったのだろうか?

 今日、韓国教会は異端でない教会がないくらいに互いを異端だと言い、自分だけが最高の信仰をしているような錯覚に陥っている。また、教会は、牧師たちの生計手段のための生活の拠り所へと転落してしまった。主のしもべなら、常に神との従属の可否を瞬間瞬間信仰によって確認して生きて行かなければならない。なぜなら神から捨てられたにもかかわらず、それもわからないまま、主のしもべに成りすます愚かさを犯してはならないからだ。

 毎年、世で行なわれる司法試験や行政試験等は、合格者発表を通して合格の可否がわかるが、教会の問題点は、任意に各教団や教派で定めた一定水準の教育さえ履修すれば、牧師按手証を受け牧師となることだ。だが問題は、神が彼らを認めたのかが重要だ。神との主従関係は如何にしてわかるのだろうか。

 霊的な事は、神との絶対的交わりの中でのみ成されるようになっている。従って自分だけがわかる主観的なものだ。それは神との交わりの可否に従って主従関係が見定められる。しかし神との主従関係がどうなっているかもわからず、主のしもべに成りすませば、それは自分も欺き、羊たちをも欺く結果をもたらす。そして教会を汚染する主犯として教会で上席を我が物とし、自分も入れず人も入れないようにしていると言う事実を悟るべきである。

    悔い改めよ!

    聖霊の導きのない説教、聖霊のない教え、教育、祈り、相談、伝道等、聖霊の導きなく人間の理性による知識だけで神の御言葉を伝える者が不法であり、詐欺牧者であり、反キリストである。

2. 牧師たちは、もしこの類に属するなら悔い改めよ

     真の神のしもべでない牧師の特徴は次の通りだ

● 御言葉の力がない

  ・説教を、まるで学生たちに教えるように、理論と論理が整然とし知識で理解させようとする牧師

  ・祈りがなく説教する牧師

  ・説教の御言葉が、始めは一貫性があるように見えるが、後になってみると一貫性がなく混沌ヘと追いやる牧師

  ・説教の後に、その御言葉に応じた役事と成就のない牧師

  ・説教を聞く時は理解できるが、振り返れば何を語られたのか思い出せず、20~30年間説を聞いても、1つ2つしか御言葉の内容が思い出せない説教をする牧師

  ・説教をしても、信徒の良心に変化をもたらすことのできない牧師

  ・枠にはまった注釈の解釈だけに依存し説教する牧師

● 祈りを全くしない

  ・祈っても役事の起こらない牧師

  ・祈る時間がなく、世のことに忙しい牧師

● 自分の省察をしない

  ・信徒たちが見て、あるいは自分が見て、間違いを犯しても神からの懲らしめがないか、あるいは1~2年後に懲らしめが遅れて降りても、懲らしめの理由をわからない牧師

  ・物質と名誉を明かす牧師

● 知識だけを掲げる

  ・聖霊の役事のない牧師

  ・あらゆることを、世の知識と常識で進行し教える牧師

  ・聖霊体験のない牧師

● 見たまま判断する

  ・一抹の良心の呵責もなく、教会とキリスト教が腐ったと言い、はばかりなく何でも異端だと判断する牧師

  ・自分は常に正しく、他人はみんな間違って見える牧師

 サウル王がなぜ神から捨てられたのか。それは驕慢によって預言者サムエルを待たず自分の考えで行なった結果ではないのか?主のしもべは常に、自分自身が神との交わりの中で一致しているのか点検してみるべきであり、私が神の御心に従い守り歩んでいるのか、几帳面に問い、悔い改めて行くのが、しもべとしての根本姿勢であり優先順位である。

 神との交わりがきちんとされていない既成教会の牧師たちは、神から捨てられたのがいつからなのか考えてみて、主の栄光のためにも一線からすぐに退くべきだ。彼らは教界を汚染し罪悪を伝染させる者たちであるゆえ、むやみに羊たちに手をつけてはならない。

 このような牧師たちには神の災いと御怒りが、行ないに応じてあるであろう。

   聖霊の交わりが断絶した人本主義者たちが教会を治めていたために、キリスト教がその姿を失い、異邦宗教へと転落の道をたどっている。改新教  (プロテスタント) がカトリックと異なる点は、全ての権威を聖書に置いている点だ。これまでの行ないがもし聖書的でないなら、教団であれ、教会であれ、牧師であれ、どこの誰も神の審判から例外となることはない。

   聖書の骨子が何であるのか。我々の全ての生は聖書と一致しなければならない。この御言葉から離れてもならず、付け加えても取ってもならず、語られた通りに歩むことで信仰は成長するのである。

    “今後、異端論争をする者には、霊肉ともに災いと御怒りがあるであろう。

    聖霊が語られる声を聞きなさい”

    ハレルヤ! ただ主に世々限りなく栄光あれ  アーメン