獣の数字6.6.6と偶像崇拝 [1]
神学と教理の墓は、死んですでに何百年も前に石碑が立ったにもかかわらず、すでに死んだ教理にしがみついて福をくれと乞うのは、偶像崇拝と何の違いがあるだろうか。いつだったか写真で、死んだ母親の乳房を噛んで乳を吸って泣いている子どもの姿を見たことがあるが、その記憶が頭から消えることがない。その度に、教理にしがみついているキリスト者たちだという思いがしきりに交差したものだが、恐らくこの姿が教理にしがみつくキリスト教を説明するのに最もふさわしい表現であろう。現代キリスト教は命を失った教理の偶像に陥っている。
キリスト教信仰は本当にとても簡単なものであって、神 (創造主) の戒めである愛ひとつだけを持って歩む宗教だ。ただ愛一つだけを握って応用し、目的地へ到達する宗教なのだが、現代キリスト教は、キリスト教本来の目的を失ってしまい偶像崇拝に浸りながらも、それを全く深刻に察知していない。人間は善悪の実の事件以後、罪の結果として、命の本質の霊である聖霊を喪失し、肉に変わってしまった (創 6:3)。それによって神と人間との関係が断絶するようになった。神との絶たれた関係を再び改善する為には、元来のアダムの堕落前の状態に帰らなければならない。
従ってキリスト教の目的は、人間たちが願う永世、福楽等の現世的な祈福信仰(ご利益信仰) ではなく、アダムの堕落前の姿に回復すること、つまり神のかたちへと帰ることである。それが救いの窮極であり核心である。そのためには霊的でなければいけないため、聖書は霊を追求し霊に全ての焦点が合わされている。キリスト教が霊的でない時には、どんなに美しい倫理と道徳性、規範、教理、または熱心さを持っているとしても、宗教としての機能喪失はおろか、死んだ宗教が量産されるだけだ。
今日のキリスト教は、神学の目覚しい発展にもかかわらず、信仰は日増しに混乱の中で停滞、後戻りし、ひどく汚染されて世俗化し、キリスト教信仰の究極的目的とは相当に距離のかけ離れた方向へと駆け上がっている。科学文明、ヒューマニズム、市場経済論理、拝金主義・・・等、予見されたことだが、これらは信仰者としてどこからどこまでを認めるべきで、また何を否定し、どんな身の処し方が正しいのか等、信仰の相当な混沌と混乱を経ている。
教会で語られることは全て正しく尤もな話で、またそのように生きなければならない。しかし、いざそのように生きようと覚悟をして、この世で生きる前線に出てみるが、この世の構造は信仰とは全くそぐわない違う世界に置かれている。従って私が生きる為には教会で提示する真理のやり方ではなく、私だけの違うやり方を持っていなければ決して生き残ることができない。その結果、良心は二重構造の中で益々狡猾になり、心霊は頑なになっている。
キリスト者とは、ひたすら信仰のために生きなければならない。信仰とは、純度100%の真実によって成されるべきなのだが、狡猾は、その信仰を支えている真実性を破壊し、到底信仰生活をすることのできない霊的不具者にしてしまうのである。このように信仰は信仰、生活は生活と、徹底的に二分化して漂流するというのは、つまり真理が、人間の理性によって発展、建築されたと言うはっきりとした証拠である。こうした状態では、聖霊の持続的な強い役事が起こったとしても、今日までの韓国の聖霊の役事が祈福信仰で終結したように、この世界のどこかの国で、再び聖霊の役事が起こったとしても、全く同じ悪循環が続くことだろう。その理由は、聖霊によらず人間の理性による神学でキリスト教が成長した為だ。このように神を排除し、人間の理性だけによる全ての方法を、獣の数字6.6.6と言い、これを偶像崇拝と言う。さて聖書で語られる本当の意味の ‘6.6.6’ と ‘偶像崇拝’ が何であるか考察してみよう。
1. 獣の数字6.6.6は人間の理性で形成されたものだ
● 獣の数字6.6.6とは?
“小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、全ての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。またその刻印、すなわち、あの獣の名、またその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である” (黙 13:16-18)
上の節によると、すでにこの世の全て者、即ち、小さい者も、大きい者も、貧しい者も、また、神のしもべも全て獣のしるしを受けたと言うのだ。果たして獣の数字6.6.6は何を意味するのか、聖書的に追論してみよう。
獣の意味については聖書のたくさんのところで言及されているが、その中で代表的には詩篇49:20節に正確に整理されている。獣は人間を象徴する。人間の中でも①神をわからない者たち、②栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい、と定義している。
人とは、神を理性によって知識的に知るのではなく、心霊で悟り、知り、信じて生き返ったことを言うのである。人間の本分は神のみを畏れること。即ち、愛に一貫することだけが、自分がこの世に存在する目的であることを、はっきりと心霊で理解し悟ることである。信仰はその人の人生の中心だ。その人は神を知ることのできる霊の機能が生き返ったために、心霊で信じ悟って信仰をすることができるのだ。また心霊が生き返ったゆえに軟らかく繊細であるため、不従順すれば心霊が呵責によって辛くて絶えられない。その苦痛をこの世で最も恐れる。このような人が堕落すれば、悪霊の働きによりこの世の人よりもっとひどく堕落することもある。
獣とは、
① 神を初めからわからず、また知ろうとする必要性も感じない。彼らには金、名誉、権力、子供、親、兄弟、友達、親戚などが彼らの神だ。
② 神はわかるが、理性という知識だけで理解し知っているだけだ。たとえば、ユダヤ教の律法学者ニコデモもやはり大変敬虔な人であったが、神を知る理性はあるが霊の機能が蘇生していなかった。ほとんどのキリスト者たちと神学者たちがこの分類に属する。従って聖書は、心霊が水と聖霊によって再び生まれなければならないと言ったのである。(ヨハネ 3:5)
獣と人間が違うのは、創造からが違う。同じ第六日にまず家畜と獣を造られた。その後で、人は神のかたちと姿のとおり土で形造られ、男の鼻にいのちの息を吹き込まれて、人が初めていのち (生きたもの) となった。人と獣は神の創造物でありながら、相違点は、神のいのちの息 (聖霊) を受けたのか、受けていないのかの違いで区分される。
つまり、表面の肉の姿は同じ人間だとしても、神のいのちの息、つまり聖霊がある時だけ人間であるが、聖霊がない時は、神を知り告白する心霊がないゆえ、獣へと転落するのだ。エゼキエル書37章の、息を与えられて干からびた骨が生き返るように、人間は神の息を受けた時初めて死んでいたいのちが復活するのである。
キリスト者であっても生まれ変わるまでは、厳密に計ればキリスト者とは言えない。その理由は、頭 (理性) ではイエスを知り理解するが、心霊をもってはっきりと感じていないからだ。こうして心霊に感じない信仰は、聖書が求める信仰を決して受容することはできない。つまり、主を告白できないということであり、これは聖霊に属することを受け入れられないと言うことだ (Ⅰコリント 2:14)。
それで聖書は、神を知るには神の霊である聖霊がなくてはならないため (Ⅰコリント 2:11)、聖霊によらずにはイエス・キリストを主だと言うことはできない (Ⅰコリント 12:3)と記しているのである。従って人間は誰も尊いが、神がわからないのは、無知で堕落したままの、神の霊であるいのちの息が喪失した状態であるため、愚かな獣だと言うのだ (詩 73:22)。
神は人間たちに如何にしてでもご自身を見いだすように、あらゆる万物を通じて常に開いておいたが (使 17:27、ローマ 1:19)、獣に転落した彼らが、心に光より闇を愛し、神を知ろうとしたがらないので、その思いに引き渡されたのである (ローマ 1:28)。
いのちがあると言うのは、人間が再びいのちの息なる聖霊を受けたと言うことだ。その霊によって人間は神の創造物であることを悟り、真の人間の存在性なる、神を畏れ、その命令を守ることが、人の本分であることを悟ること (伝 12:13)だと、聖書は定義している。こうした命の本当の意識がないこと、つまり神を探し求める霊がなく、魂 (理性) 一つだけで生きて行く人間の命が、6.6.6獣の生であり、聖書はこれを、生きていても死んだ者だと定義している (Ⅰテモテ 5:6)。つまり、神の霊 (聖霊) のない、理性単独の世界、即ち人間の魂的な世界が獣の世界であり、それを6.6.6と言う。(説明の目的上、魂、理性、精神等の単語使用が不可避である。許されれば霊、魂、肉について言及できればと思う)
額に刻印を受けたと言うのは、霊なく人間の理性的教育だけを受けたと言うことだ。これは、6.6.6の印を受け獣に拝し、偶像に仕えていることだ。特に韓国の教育を見ると、小学校6年、中・高校3年づつ6年、大学4年大学院2年計6年、こうした6.6.6の教育課程は何を象徴しているのだろうか。これは偶然なのか。必然なのか。6.6.6の印の出来事は象徴として、過去、現在、未来どの時代にもあった事であり、今もあり、今後もあるだろう。ここから避けて出る者が誰がいるだろうか。
この世は、6.6.6を履修して刻印 (学校卒業証書) を受けた者のみが就職が可能であり、学校に行けなかった者たちは刻印 (卒業書) がないため、就職の機会を奪われ、苦しい生活を余儀なくされる。だから頭が破裂するほど、その刻印を受けるため渾身の努力をしている。その刻印である学校の卒業証書は、その人を評価する基準 (履歴書) となる。人間はその刻印を持って、自分の技術を職場に売り、職場は個人の技術と技能を買い、このようにお互いが売買することで人間たちは生きて行く。今日のこの世の構造は、こうした理性の影響下で全ての人類が放蕩している。これはつまり、6.6.6の印を受け、大きい者も、小さい者も、この世の全ての者がみな獣を拝し、偶像崇拝しているのだと聖書は記している。ここから抜け出す方法は、使徒パウロの宣言の如く、ただ聖霊の満たしを通し、聖霊の導きのままに従って生きることだけが、偶像崇拝を投げ捨てることのできる唯一無二の道なのである。
耳のある者は聖霊の語る声を聞きなさい。
● 理性とは?
アダムの堕落後、このように人類のあらゆる生を支配している獣の数字6.6.6、即ち理性とは何なのか。人間は善悪の実の事件後、神との交わりが断絶した。その時から神を知ることのできる霊が排除されたまま、魂と肉だけをもって獣としての生を生きるようになった。これは例えば、夫が生存している時には、夫によって決定権、経済圏、財産権…等、全てのことが成り立っていたが、夫と死別してからは、夫の全ての権限が女性に移譲され、女性単独で生活を主導するようになるのと同じだ。アダムの堕落前には、あらゆる生の本質が霊によって成り立っていたが、堕落後、霊がない魂 (肉) は、霊の主権であるところの全ての生の主権と決定権が、魂に、つまり理性に移り、理性単独であらゆる事物を判断し、執行し、真と偽、善と悪を識別する能力を持ち、全てのことを処理するようになった。
理性は魂と言う。その魂を、人間最高の至高線の位置に配列させて、人間の精神と全てのものを支配している。それは膨大で広範囲である。哲学は一般的に、人間の精神の中は、知、情、意の相互複合作用によって生きて行くと言う。(心理学で言う、人の3種類の心的要素である、知、情、意を言う。この言葉もやはり聖書にない虚構用語であるが、理解の助けのため仕方なくこの用語を使用する) 理性と知は、離れてはならない緊密な相互関係を持っている。‘知’ に属する知識は、自身が知っている情報を総動員して理性に伝達する。そして ‘情’ と ‘意’ の協助を得る時はじめて、理性は信じて認めるようになり、確信を持つようになる。こうして知、情、意の緊密な相互複合作用によって理性は支えられ、事物を判断する力、真と偽、善と悪等を識別する能力を持つのである。
人類はアダム堕落以後、全てこうした理性の影響下で、人類歴史と文明を謳歌した。つまり理性によって想像し、思惟し、直観と思弁をもってあらゆる哲学や学問、科学、文化や宗教、芸術…等を装飾し開発するのに、理性と言う道具のみを使用した。人類は否が応でもこの影響下で教育を受け成長した。それで共に生きて行くために社会や国家が構成され、また社会と国家の理念や世界の思潮に従って、誰もが認識する常識を作り出した。その普遍性、妥当性を土台にして規範、法を作って生を営んできた。このように理性に依存し、理性の中だけで生きて来た結果として、人間の心霊は肉に (ガラテヤ 5:19) 堕落した。肉に堕落した人間たちは、自らが生きるためバベルの塔を積む。彼らは神との交わりが断絶した状態でも、城のてっぺんを天に届かせようと言って、自分たちの創造目的と本分をすっかり忘れ去ったまま、神と同じ人生を目標にして栄光を受けた。そして人類救援の道と、暮らし易い世の中を作ろうと、神が排除されたまま理性単独で、如何に良い暮らしができるかと言うところに答えを求めようとする。
それが哲学の目標とするところだ。プラトン哲学の目的のように、如何にしたら良い暮らしができるかと言うのに対する答えを求める行為が愛知 (哲学) だと信じている。生成、消滅、流転する多様な存在から成り立つ感性的世界を超越し、不滅の真実なるイデアを通し、人間の魂を善良で美しくしていくことで、この世を善良で美しくすると考えた。アリストテレスの追求も、真実なエイドスの探求であった。このように理性は全面的に知識に依存し、知識を持って、神がなくとも人間だけの力で自らこの世を動かし支配しようとする。理性による知識の上層部は、それなりに表面は美しさを持っている。その美しさとは、隣人と愛し合い、人間らしく尊重され待遇を受けて生きること。そしてそれを実現する方法が平等にあると考える。平等を維持するには、公義が実現されなければならない。そしてこれがきちんと実現されるようにと正義で括り付けた。つまり不義を忍ばず、監査し、干渉することで、常に平等が円滑、維持するように作ったのである。
従って知識上層部の理想郷はヒューマニズムである。人間を中心に人種、国…等の差別を超越し、全ての人間が平等にお互いを尊重することで、人類の安寧と幸福を計ることを理想とする。これが即ち人道主義だ。大体においてあらゆる哲学等の窮極点である。神学が相互異なった数多くの見解を持っているが、窮極的な合目的は天国であるように、哲学もやはり完全に異なる見解を持っているが、全ての哲学の窮極点はヒューマニズムだ。
ヒューマニズムは、神がなくとも人間たち自らが作り築き上げた人間たちの宗教であり、人間たちが守る信仰だ。
この世の思潮は、人間中心、人間尊重のヒューマニズムと言う仮面を被って宗教の代わりをしている。宗教指導者たちもやはりその美しさに流され、全てが自分たちも気づかぬうちに彼らと野合してきた。全ての人類とこの世はこの影響下に置かれ、徹底した支配を受けている。 ヒューマニズムは本当に美しく高尚で正しく見えるが、これを警戒すべきなのは、神なくとも人間自ら存在できると言うことである。つまり神の宝座に人間が座っていると言うことだ。
哲学の要覧は、人間平等と自由の謳歌から出てきた。遠大な枠で見れば、人間たちは哲学と言う道具を持ち、或いは宗教と言う道具を持って、神を排除しながらもそれなりに人間たちの根源的な欲求 (幸福、即ち神を慕う心) 解消に努めてきた。その欲求の窮極は自由であり、その自由を探すことに努めていたのである。
現在の世の思潮である拝金主義はお金の神であり、目的はお金に置いている。その理由はお金が私の自由 (幸福) を保証してくれるという最終的な確信のためだ。今やこの世は、この世の知識が知識としての座を守れず、堕落し、食べて生きる手段としての機能へと転落した。このように、哲学の全ての理論は尤もらしいが実際には不可能であるため、使徒パウロは、哲学の本当の正体は、偽りとごまかしだと明言したのだ。その理由は、創造主である主人の許可と参席のない、人間たちだけの宴であった為、不法なのである。問題はこうした哲学の影響をキリスト教でも取り入れたことだ。それが神学である。
● 神学は獣の数字6.6.6の理性によって形成された
初代キリスト教教会は、神に対する知識と信仰・・・等、信仰全般にわたるキリスト教の実体を、組織的に体系化することができなかった。それは、ギリシャ哲学の影響を受けてはじめて可能となったのであるが、哲学的思考方法による神学が、福音の真髄を正確にきちんと糾明してくれたことで、信仰を持てるようになったと言う、その功労に対して、キリスト者の大部分は否定できない事実だとうなずくだろう。だがそれは大変な誤解だ。結果的にはキリスト教に対する否定的な結果を招き、今日、キリスト教に対する完全な歪曲をもたらした。その理由は、哲学の本質は理性であるからだ。理性は直ちに理性を生む。哲学の影響を受けた神学もやはり理性であるため、理性にのみ伝達され、理解をさせてはいるが、霊にまでは決して伝達できない。霊は霊によって伝達される。つまり聖霊だけが人間の中にある霊に伝達し到達するようになっている。
聖書で教えられているキリスト教式の論証方法は、ただ聖霊の力と役事によってのみ成し遂げられる (説教者の聖霊による説教)。聖霊が来られてはじめて教え、思い起こさせるのである。だが霊のない人間は、まるで親のない孤児のようで、理性単独で全てのことを認識し、表現し、行動する。神学はその哲学の方法をその通り模倣し、思惟、思弁することで、認識、存在、価値を研究し探求するのである。哲学は、理性だけをもっては認識できないことをすでに切実にわかっていた為、理性でなくとも、もう一つの方法を更に追求したのが、直観というものだ。
直観は大きく二種類に分類される。一つは動物たちが持っている直観 (即刻という本能の動物的反射作用) と、もう一つは人間が霊の代わりに使用する直観であり、これは理性の最高峰にある。直観は哲学でも使用されたが、特に東洋宗教 (儒家、仏教、特に禅仏教) の発達は、全てこの直観によって発達、形成されたと言っても過言ではない。中国はすでに道教と大乗仏教が融合し、瞑想仏教なる禅仏教を生み出した。禅仏教では形而上学と理論を慎み、徹底した経験に伴う直観を好んで選択した。道教もやはり事物を洞察するのに瞑想を通じて、人間が持っている直観を使用する。こうした異邦宗教の習慣がキリスト教の中でも、理性の作用である直観を霊だと錯覚し、霊との交わりを成そうとする試みを濫用している。
聖霊の働きと、理性の働きである直観との差異は、紙一重の違いだ。聖霊は必ず霊感 (感動) を 通してのみ我々の心霊に働く。霊感、つまり感動は、信仰によって自分だけがわかる、とても確実で正確で、瞬間的に「ああ、これなんだ」と言う聖霊の教えと、気づきによって生じる完全な信仰と同時に、平安、安らぎが一緒に来る。これが霊感であって、決して直観と混沌させてはならない。大体、聖霊の導きを受ける信仰において、キリストの平安が我々の心霊に起こるのは、主の応答であり、また主の声なるレマだと言っても良い。(まずは不十分だが、ここまで知っているだけでも一般信徒たちが信仰するにおいて大きな無理はないだろう。だが牧会者であるなら、もう少し深く知らなければ教会の霊的管理はできないだろう。主の許しのまま少しずつ言及したいと願う) 韓国のキリスト教が、理性の作用である直観を聖霊の役事だと信じ行なっているうちに、うろたえて大変な混沌に陥っているのは、教会指導者たちの霊的無知と直観使用の濫発にある。
1) 理性最大の弱点
理性の最大の弱点は、自身を背後で操縦する霊の存在を全くわからず、理性自身の単独であると錯覚していることだ。霊は、神の霊である聖霊の属性とサタンの属性がある。聖霊の属性は愛である (コリント 13:4-7)。つまり、寛容、親切、ねたまず、自慢せず、高慢でなく、礼儀に反せず、利益を求めず、怒らず、悪を思わず、不正を喜ばず、真理を喜び、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ...ことによって、神は我々に現われた。この愛を完全な愛と言う。これがまさに神のかたちである。一方サタンの属性は肉の属性で (ガラテヤ 5:19)、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものを言う。このように神とサタンとははっきりと区分されているが、理性は霊の存在を全くわからず、何でも理性自身の単独判断だと錯覚しているのである。
人間はアダムの堕落前には、神の霊によって直接背後で調整を受けていたが、アダムの堕落後からは、神の霊ではなくサタンの支配下に入ったのである。舞台の上のあやつり人形は何もわからず、調整する者によって歩き、泣き、笑い、踊るだけに過ぎない。エバが蛇に騙されたように、哲学者自身は自ら思惟、思弁、直観によるものだと思っているが、哲学者に知恵を与えるのはサタンなのである。従って直観使用は、愛が完成され聖霊充満な時には気をつけながら使うこともできるが、それ以外には、自分の想像や、或いは異なる霊によって背後操縦されるため使ってはならない。
このようにどんなに表面はそれらしく似通っていても、理性は理性にすぎない。理性単独自体の本質は驕慢である。なぜなら、本当の主人である霊のない理性は、自分が主人であり、宇宙であり、世界であるからだ。つまり自分だけ、天上天下唯我独尊だと考える。従って知識が理性に積まれ続けると驕慢として噴出する。
一方霊には知識が積まれれば積まれるほど謙遜として現われる。このように神学は、哲学の本質である理性を理解できないところから始まった愚かさであった。これは人間の本分なる正道を捨て、計略を企てようとするところに起因する。
神学者たちは、神学も聖霊によるものだと主張する。しかし神学が聖霊ではなく理性によって形成されたと言う理由は次の通りだ。
① キリスト教神学が聖霊によるものならば、論理が出ることはない。つまり神学は形成され得ない。その代わり使徒時代を模型として教会が形成される。1960-70年代の聖霊の役事が起こった時、聖霊の強い教会であるほど、決して完全ではなかったが自然に使徒時代をモデルに教会が形成されていたことがわかる。
使徒時代に帰ろうと言うのは、信仰者誰もが渇望する信仰方法の理想郷的モデルであり、神学もやはり使徒時代に再び帰る事を望んでいる。そうした望みにもかかわらず、使徒時代に対する念願はどこまでも理想論に過ぎない。
その原因は何であろうか。述べたとおり神学は、哲学の道具を借りて福音を証した結果、量的には拡散したが、質的な霊的なものは全く効果が見られなかった。かえってここからが問題の発端となった。それは、霊と理性は互いに異なったシステムを持っているため符合することができないからだ。
神学は理性をもって知識に伝達され、霊は、聖霊の力をもって人の霊に到達する。従って理性による神学は、理論が合わなければ、私が思い違いをしたんだと言って、再び理性の元の位置に戻り霊を否認する。このように霊と理性は互いにシステムが異なる為、決して符合することはない。従って神学による信仰では、使徒時代的な信仰には決して戻ることはできない。
神は、今日の神学のように人間の理性によって定立してはならないと求めておられる。その理由は、必要ならばいつでも働かれ、神の御力を通じて神を見せ、現われると言うのである。更には、何を言おうかあらかじめ考えないことを心に定めなさいとまで言われた (ルカ 21:14)。理由は何なのか。神は人間たちに、あなたがたの知恵を使わず、どうか口を閉じてじっとしていてごらん、わたしがわたしの知恵を見せてあげるから、その知恵を与えるのはあなたの神であることをちょっとわかりなさいと、あらゆる方面に神ご自身を現わしたかったのである。
使徒行伝の主人公である使徒たちが、神学をした人たちなのか。果たして今のように体系的にきちんと整理され、細分化された教理で武装されていたのか。それとも無知なほどに何もわからないまま、ただ聖霊の導きと力だけに頼り、イエスだけを証しした人たちだったのか。多分今の神学者たちと、その当時の使徒たちが一日だけ一緒に働いたら、神学者たちは使徒たちを見て、誤った霊媒者たちだと直ちに判断することだろう。
しかし使徒たちは、彼らの無知を聖霊の力を受けて知恵、知識として満たし、その知恵知識の供給によって福音を伝えたのである。使徒パウロもまた自身の知識自慢をした。だがその知識は福音において絶対不必要であり、かえって損と思い、ちりのように捨てたと言った (ピリピ 3:7-8)。そしてただ聖霊の力の中だけで働いたと数多く言明している。
今、この時代も同じことである。果たして説教はどうしろと言うのだろうか。準備せずどのように大衆の前に立てと言うのか。ああ!私は今日も死ぬのか、そうだ、死のうじゃないかと言って、恥をかく思いで準備せずそのまま立ちなさい。知識に依存せず、私を媒介体として聖霊が役事されるよう委ねよ。これは到底できない余りにも難しい注文のようであるが、何を語ろうかあらかじめ考えないよう心に定めなさいと言う、聖書の強い求めに従順しようと、心の決心した姿勢となる時、聖霊の役事が起こるのである。その時、使徒時代に帰ることのできる希望が開かれるのだ。
この世的な知恵知識もなく、ただ神だけに乞い求めて、その日その日を生きながらえた使徒たちのように、そのように聖霊の力が働くようにするには、神学の知識が必要なのではなく、絶えず祈ることでその力を着なければならない。
② 聖書は、神学の知識ではなく、聖霊、つまり愛の完成へと進むべきだと教えている。言及したとおり、哲学は理性を最高の位置に置く。その理性を稼動させるのが知識だ。知識は盲人にとって杖の役割と同じで、理性が知識と連合しなければ、理性は機能が麻痺し何の役割もできない。従って哲学の方法をそのまま導入した神学もやはり理性を最高の位置に置く。一方キリスト教は、聖霊が最高の善である聖霊の宗教だ。神学は、神学の正しい知識によって神との正しい関係が成立する条件を形成し、それによって真の正しい信仰をできるようにすると言い、知識の必要性を力説するが、それがまさに神学自身が、理性による人本思想だと言うことを証明している。なぜなら神との正しい関係は、愛 (聖霊) が完成されれば、顔と顔を合わせて完全に見るように、自ずと神についてわかるのであって、知識によってわかるのではないからだ (Ⅰコリント 13:12)。
モーセから1500余年の期間をもって立てられた、ユダヤ教の熱烈な追従者であったサウロがパウロに変えられたのは、ダマスコでの瞬間的な聖霊の力によったもので、知識によるものではなかった。それはつまり1500余年間の期間をもって立てられた律法宗教のユダヤ教の知識等を、聖霊の力によって一瞬に打ち壊したことを意味する。
このように、聖霊の世界、つまり神の国は科学、論理をもって説明のできない世界である。これは聖霊 (愛) が来られ、我々の心霊に多くの知識をいっぺんで理解させてくれる、時、空間を超越した世界であり、こうした聖霊の役事によってのみ理解できる世界だ。愛は知識の完成である。
愛は真理の核心であり、初めと終わりであり、まさに神ご自身である。職分によって差はあるが、キリスト教信仰は、この世で一日一日毎時、何をしようと、愛に到達することを目的として生活しなければならない。そうすることで毎時、神をこの世に現わし、神の栄光の為に生き、キリスト教信仰の窮極と目的地に到達するのである。これが神を畏れる生き方だ。
聖書は、完全な愛の到達は、聖霊の助けなしにはどこの誰も行くことも来ることもできないと明言している。ただイエス・キリストなる聖霊によってのみ、愛に完全に到達、完成することを約束している。
従って、愛に到達できない全ての神学的見解、思想、教理は、キリスト教信仰とは無関係であり、無意味である。かえって混乱だけを加増し、信仰を阻害する要因として作用する。こうした次元で見る時、果たして神学の位置はどこなのか。
③ 神学は聖霊による信仰の実がない。キリスト教はほぼ二千年を一日も欠くことなく、その真のすばらしい神学の知識で、愛、犠牲、十字架、信仰・・・等を話しながら、愛に到達、接近しようとかなりの努力と苦労をしたが、今日に至っては、キリスト教の実は、むしろ愛とは完全に垣をめぐらしている状態だ。
今、現代に起こる世界情勢を見てみよう。その中で覇権を握っている超大国、特にキリスト教国家を見ると、彼らは、自国の国益の前には真理も御言葉も、そんなことは眼中にもない。彼らはただ一匹の飢えた獣たちにすぎない。その獣たちの欲の前には、神学の涙ぐましい努力を前に、真理も御言葉もすべて無用の物となり、みな倒れ、押し流されて行く。だから理性による信仰は砂上の楼閣なのだ。聖霊が人間の心霊に関与した霊だけが磐石となるのである。神学は、信仰に到達させるためにどれほど苦労と努力をし、血を流したことか。しかし、この世の思潮であるお金、名誉の前には、淑女が突然急変し、遊女と化してしまう自分たちの矛盾を、我々は限りなく見続けてきた。
神学は有名論と、もはや考えを改めなければならない。だがそれも遅すぎた。‘世界情勢は、政治だから政治家がやるのではないのか、我々もどうしようもなかった’ と弁明するだろうが、その国家たちは民主主義国家たちだ。民主主義は世論によって動く。その世論を動かすのは国民たちである。その国民たちは日曜日にはほとんど教会に行き、牧会者の教理によってきちんと組み立てられた説教を聞き、神に栄光を捧げ、賛美し、また十一献金も出す。このように大多数の国民がキリスト者であるからキリスト教国家と言うのだ。結局キリスト教国家を動かすことができるのは牧会者たちであるのだが、果たして神学が如何なる役割をした為に、このような実が出てきたのか。
今、神学はまるで、二千年間、水泳選手が水の中に入って水泳の実力を見せることができず、準備運動をしているうちに終わったようなものだ。以上のように実のない神学の結果は、神学が聖霊ではなく理性によって形成されたと言うはっきりとした証拠である。それは即ち、獣の数字6.6.6によって形成されたからである。
2) 理性が全て悪いのではない
理性が決して無条件に悪いと言うのではない。今まで悪いように述べたのは、理性単独で行動する場合を言う。創世記に神が、人が一人でいるのは良くないと言ったように、霊や理性が別々に単独で行動するのはよくない。特に霊、霊と言い、聖霊の導きだと言って、理性の介入のない霊の単独行動を、知恵と徳がなくやたら無条件行なう姿を恩賜的教会でたくさん見てきた。それが本当に聖霊の導きだとしても、理性の合意による徳のある態度をまずとり、迅速にそこにふさわしい合意がなされて聖霊の導きを執行するのである。
たとえば、ある人がシャワーをしている時に電話が来た。突然急ぎの用事ができて外に出なければならないのだが、その男性はあまりにも急いで、裸で靴だけはいて出て行こうとする。その時、妻が迅速に用事にふさわしい服を支度してあげて送り出す。このように、霊は理性がある時完全に一つとなることができるのだ。それで霊と肉の関係を夫婦として表現する。聖書のアダムは霊を、エバは魂 (理性) を象徴する。共に一人でいることを禁じたことの象徴性は、霊と理性がこの世に存在する限り、霊なら霊、理性なら理性、このように各々単独で行動せず、理性は霊に無条件従順するのだが、その従順は、夫の身の振り方を賢く支える妻のような役割をする時、美しいキリスト教信仰となっていけるのである。
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