教会は光と塩の解釈について、一般的には、聖徒が世の中で倫理、道徳的側面で善良な行ないをすることが聖徒としての義務(光・塩の役割)を果たすことだと理解している。だがこうした倫理、道徳的な解釈の教えは、信仰の一部分に過ぎず、信仰の最終窮極点には決して到達できない。光を放つことを、今の現代教会のように、聖霊の教えと導きのない、行ないだけを目的にした教えでは真の光とは言えない。では光と塩が意味する真の意図とは果たして何なのか。これを知るには、真の光であるイエス・キリストの行跡を見れば、その光の実体が見えてくる。
その当時、イエス・キリストの行跡は、今日の教会が解釈する光、塩のような道徳的、倫理的、常識的な基準の物差しでは理解することのできない、奇妙な行動が多かったことがわかる。結局ユダヤ人たちは、イエス・キリストを律法的道徳律の物差しで判断し、メシヤを罪人の一人として十字架で殺すという結果を生んでしまった。
現代教会で一般的に解釈する光、塩の基準で見たなら、イエス・キリストの行跡よりは、厳格な律法的道徳律を持ったパリサイ人たちの行ないの方が、むしろ光と塩に対する基準により近いと言える。それでその当時にも、イエス・キリストを見つめるユダヤ人たちの視線はあまり穏やかでなく、それよりは、律法に基づく禁欲主義的な信仰をするバプテスマのヨハネの方がむしろ彼らの称賛と崇敬を受けたのである。
しかしバプテスマのヨハネは、道徳的、倫理的、禁欲主義的な預言者の要素を完全に備えながらも、自身を光ではないと言った。その当時パリサイ人たちもやはり厳格な律法的道徳律を持っていたにもかかわらず、聖書は彼らを闇だと表現し、イエス・キリストだけが真の光だと言った (ヨハネ1:5)。今我々は、真の光、塩が何であり、如何に歩むことが世に対して真の光、塩の役割をすることなのか見てみよう。
[1] 光
光は聖霊であると言っている。
1) 光は聖霊だ
なぜ光が聖霊となるのか聖書的に考察すれば次の通りである。
① 光=真理であり、真理は聖霊だ。
“真理を行なう者は、光のほうに来る” (ヨハネ 3:21)
“真理の御霊が来ると…” (ヨハネ 16:13)
光=真理=聖霊
② 光=いのちであり、いのちは聖霊だ
“この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった” (ヨハネ 1:4)
“いのちの御霊の原理が…” (ローマ 8:2)
光=いのち=聖霊
③ 光=キリストであり、キリストは聖霊だ
“わたしは世の光です…” (ヨハネ 8:12)
“主は御霊です…” (Ⅱコリント 3:17)
光=キリスト=聖霊
2) 光の象徴はキリスト、御言葉、真理、聖霊だ
これをまた図表で説明すれば次の通りだ。
上の図のように、光が象徴する意味は、キリスト、御言葉、真理、聖霊が成立する。
3) 光を放つという意味は
聖書では、キリストのかたちを着る時に光を放つことができ、キリストのかたちとは、神 (創造主) の性品である聖霊に満たされることだと言っている (Ⅱペテロ 1:4)。故に聖書は“ただ聖霊に満たされなさい” (エペソ 5:18) と言った。聖霊に満たされる時にのみ光を放つことができる。聖霊を通して啓示を受ける者、即ち、子と、子が父を知らせようと心に定めた人 (聖霊の導き) のほかは、だれも父を知ることができないと聖書は定義している (マタイ 11:27, ルカ 10:22)。このように聖霊を通し神の御心 (光) を悟り、その御心通りに歩み、神の御心を世に表わす時、これが即ち、光を放つと言うことだ。
“わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行なっていることを世が知るためです” (ヨハネ 14:31)
このように神が命じられた通り従順することで、光を世に照らすのである。
4) 聖徒はどのように光を放つべきか
光を放つと言う意味も、信仰の程度によって二種類に分類される。
●肉的な信徒の光
聖書の全てを、律法的、文字的、歴史書的にのみ解釈し信仰する信徒たちを肉的信徒と言う。彼らは、一貫してマタイの福音書5章37-48節に基づく善なる行ないをもって生きる時、それが世に光を放つことである。
“だから、あなたがたは「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言いなさい…あなたの右の頬を打つような者には左の頬も向け…下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。…だから、あなたがたは、天の父が完全なように完全でありなさい。” (マタイ 5:37-48)
信徒が親切で善良に生きなければならない義務と目的は、聖霊を迎えるためである。これは、新婦が新郎を迎え結婚するため婚礼の準備をするように、親切善良に生きる時、聖霊が来られるからである。
たとえば大魚を釣るには、釣り餌 (この中には信仰と悔い改めが含まれる) が必要なように、聖霊という大魚を釣るには、親切で善良な行ない、即ち肉的な愛 (この場合肉的な愛とは聖霊によらない人間的な愛を言う) という釣り餌が必要なのである。結局、親切善良に生きる究極的目的は聖霊を受けるためである。
*参考:釣り餌とは?
聖霊を受ける唯一の方法は、ただ、信仰と (ヨハネ 7:38‐39)、悔い改めと (使 2:38)、求め捜す (ルカ 11:9‐13) 方法に立脚した律法的方法と、また、その結果として得る、聖霊充満の実として自発的に出てくる霊的行為の、善良で正しい行いを言う。善良で正しい行いは、聖霊を受けて維持するまでを含む。
●霊的な信徒の光
① 常に聖霊に満たされることで愛 (寛容、親切、ねたまず、自慢せず、高慢にならず、礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、悪を思わず、不正を喜ばず、真理を喜び、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ心) (Ⅰコリント 13:4-11) を心霊に完全に築き維持していかなければならない。
② 各自の心霊に照らされる光のままに歩むこと、即ち、聖霊の導きを受けていく聖徒を、霊的な聖徒と言い、聖霊の啓示と神の御心を求め従順することを、光を放つと言う。このように聖霊の導きを受けることが、信仰の窮極に達することである。
聖霊の導きは、真理の導きを受けることである。聖霊の導きの中で啓示される御言葉は、聖徒に預言として表われ、この預言された御言葉を、主の御言葉、戒めと言う。
5) 光は聖霊の導きだ
十戒が生活の中で肉に属する戒め (へブル 7:16) だとするなら、聖霊の教える戒めは、霊の戒めである。我々はこれまで聖書だけが真理であり御言葉であると考えてきた。だが聖書は、聖霊の導きを受けることも真理であり、御言葉だと言われた (ヨハネ 16:13, ヨハネ 14:16)。このように聖霊の導きは、真理の導きを受けるのと同じなのである。
今日のように教会が聖書を霊的解釈ではなく、文字的解釈だけで真理を理解するなら、愛という大原則の総体的な真理以外の、更に深い神の真の真理を発見することはできない。聖書には、個人個人の状況と立場に合う具体的な生活規範、倫理道徳等が提示されていないため、ただ愛という戒め一つで、聖徒各自が応用して生活に活用しなければならない。こうした文字的解釈だけでは、具体的な真理を決して見つけることはできない。霊的解釈がなければ、今日のような混沌と飢渇は続くだろう。
具体的な真理を探すには、霊的解釈が不可避であるが、多くの危険性と副作用が伴うため、具体的な真理 (各個人の用途と必要に応じて適用できる実践真理) の提示は、聖霊だけがしてくれると言った。だがこの聖霊の導きは、一定の枠や形式を備えた画一化、もしくは普遍化できないと言う短所があるため、聖霊の導きはほとんど、特別な人と特殊な場合を除いては、各個人にだけ適用される場合が多い。従って、聖書のきわめて文字的な解釈と、総体的な普編的真理だけでは、実生活で聖徒各個人の状況に応じた問題等を具体的に解決できないため、霊的混沌と飢渇がいっそう生じるだけだ。
聖霊は、各個人の特殊な事情等を一つ一つ個別的に導いてくれる引導者、師の役割をするというのが聖書の骨子である。故に、この時代は、各自の問題に対して聖霊の導きが必ず必要である。マルコの屋上の間から始まった聖霊降臨以後、聖霊は今も各個人に合わせて、その都度我々を直接教え導いて下さり、この時代、聖霊の光で各自の心霊に光を照らしてくれている。
“すべての人を照らすまことの光が 世に来ようとしていた” (ヨハネ 1:9)
このように聖霊の導きは、真理の導きを受けることである。我々は聖霊が語られる通りに導かれ従順していけばよいのである。たとえば、Aと言う人には食べることが善であれば、Bと言う人には食べないことが善となることがある。このように聖霊の導きは、全ての聖徒に同一の画一的な一貫性のあるものではなく、各自の信仰心と信仰の分量によって個別差が生じてくる。
真の光であるイエス・キリストの公生涯は、ご自身の生き方ではなく、完全なる聖霊の導きを受ける生き方を予標として見せて下さった。この方ご自身の判断やさばきはなく、神が語られる御言葉に完全に従順することに一貫され、我々に光となる生き方の手本を見せて下さった。
“子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことはできません” (ヨハネ 5:19)
“わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです” (ヨハネ 14:10)
このように、父の御心、即ち聖霊の教えの中で啓示を受ける者だけが、父の真意を悟ることができる。神の御心は聖霊だけが知り、聖霊なくしてその御心を知ることができないゆえ、聖霊の教えと働きだけが‘光’であり、また聖霊の導きと教えの通り歩むとき‘光を放つ’と言うのである。このように使徒パウロも、ただ聖霊の教えだけで使命を果たした。つまり光を放ったのである (Ⅰコリント 2:13)。
6) 光とは聖霊の叱責だ
“明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。” (エペソ 5:13-14)
では叱責(明るみに引き出されること)は、誰からどのように受けるのか?
“助け主…その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます” (ヨハネ 16:7-8)
上の節のように、助け主聖霊を通して、義について、罪について、さばきについて聖徒の心に叱責を受けることを光と言う。これは我々が生活の中で間違った考えで判断したことに対し、聖霊を通して教訓を受けることを言う。叱責を受けるのは、‘法廷で裁判官から過ちに対する判決を受けるように’聖霊の判決である叱責と教訓がまさに善であり光と言えよう。このように聖霊の導きと、聖霊の教えが、即ち、光なのである。
[2] 塩
塩は、救いの契約と約束である。人間の堕落後、神は贖罪 (救い) 事業として、イエス・キリストを送ってくださり、堕落した人間を回復させることを、預言者を通し多くの御言葉と預言によって約束された。約束のとおりイエス・キリストは十字架の死をもって約束を履行され、また聖霊を送って下さると約束された。その約束はマルコの屋上の間から始まった聖霊降臨であり、その約束は今も聖霊によって履行されている。これは、旧約時代ではイスラエルという国を通し、救いの象徴であった律法 (聖幕、捧げ物の規定、例祭、新月、安息日等) によって神に仕えるようにされた。その中の捧げ物の規定は、神が提示された様式どおり行なう時、イスラエルにとって救いが確かに約束された。
1) 捧げ物の目的は
① 神に対する礼拝の表現であり
② 贖罪のための代わりの供え物を捧げることであり
③ 神と人間の和解を成すのがその目的だった
この時神の前に捧げる全ての穀物の捧げ物と、その他の供え物に塩をふることをもって、神とイスラエルの民との間の契約(①,②,③)を永遠に守るという契約の象徴として塩を使った。聖書はこれを塩の契約と言っている。
“あなたの穀物のささげ物にはすべて、塩で味をつけなければならない。…あなたの神の契約の塩を…” (レビ 2:13)
“イスラエルの神、主が…塩の契約をもって…” (Ⅱ歴代 13:5)
“それは、主の前にあって、あなたとあなたの子孫に対する永遠の塩の契約となる” (民 18:19)
2) 塩の契約の契約条件は
①わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる
②神と民のあいだに和解 (交わり) が成され
③罪の赦しと、救って下さることを語られた
こうした塩の契約は、個人的には守ることも守らないこともできる自律権があった。だがこの契約は誰でも、神のおきてと法度を守ることをもって、神と自分との契約が維持されるのであり、おきてと法度を守らなければ、その契約は破棄される。おきてと法度を守る時、塩の契約は維持されたのである。このように塩はイスラエルの民が、神の提示された捧げ物の規定をその通り守る時、変わらず永遠にイスラエルを贖うと言う、契約の証票であり象徴だ。結婚する新婚夫婦がお互いに対し、変わらない愛の約束として指輪を交わすように、塩の契約の意味は、一度約束したことを最後まで成し遂げると言う意味で、塩をその契約の象徴として使ったのである。
旧約時代の救いの象徴であった塩の契約が、新約になって救いの実体であるイエス・キリストを通し成し遂げられた。神は旧約で約束されたとおり、イエス・キリストを十字架につけることで人類を救うと、預言者たちを通して預言した全ての約束を守り履行された。また死なれた後に、聖霊として再臨され、私たちと永遠に共にされるという約束を、今も履行されているのである (使 1:4-5)。
このように旧約の時は、救いを得る唯一の方法は、全ての穀物の捧げ物に塩をふることで神と和解できたが、新約ではイエス・キリストの流された血の代価で来られた聖霊によって神と聖徒との和解が維持され、救われるようになったのである。
‘旧約’の塩をふると言うのは‘新約’では、聖霊を受けることと同じ意味である。これが神の契約にあずかることだ。つまり塩の契約の窮極点は、イエス・キリストの血の代価である聖霊である。塩の意味する真意は、まさに聖霊なのだ。神の力の働きにより、福音に仕える者とされたと言うパウロの告白のように (エペソ 3:6-7)、ただ聖霊の力の働きに従って歩むことを、塩と言うのだ。
3) 塩は聖霊だ
旧約の捧げ物の塩の契約は、この時代に聖霊を送ると言う契約である。それで聖霊を、約束の聖霊と言うのだ (エペソ 1:13, ガラテ ヤ3:14)。
今もこれからも永遠に、救いである塩の契約は、聖霊の約束として履行されている。
従って聖霊を受けることは、その約束にあずかる事である (エペソ 3:6)。
これを要約すれば次のとおりだ。
塩
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> |
イエス・キリスト
|
> |
聖霊によって完成
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救いの約束 |
|
救いの契約 |
|
血の代価 |
穀物の捧げ物に |
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十字架上で血を |
|
今も呼び求める者に |
塩をふることにより |
|
流されることによって |
|
聖霊によって約束(契約) |
救いを約束された |
|
完成された |
|
を履行されている |
このように聖書が語る真の意味の光、塩に対する解釈は聖霊であることがわかる。真理の完成は愛であり (Ⅰコリント 13章)、愛の完成は、この時代に聖霊として現われた。聖霊の導きは愛の完成であり、これがまさに真理の完成だ。
聖霊は真の光であり、塩の窮極点である。
ことばが人となったごとく、神の愛は聖霊として現われた。つまり神が私たちを愛しキリストを送って下さったように、キリストは主の名を呼ぶ全ての者にとって人生の引導者、師となられ、永遠に世々限りなく聖霊として救って下さるようになったのだ。
光、塩とは、聖霊を意味する。
光は、聖霊の教え通りに歩む時、光を放つのであり、塩とは、聖霊が永遠に世々限りなく私たちと共にされると言う契約の象徴である。これが光、塩の真の意味である。
●666とは
獣の数666とは、一部の終末論者が主張するバーコードを象徴するのではなく、人間の数を意味する (黙 13:18)。律法と聖霊のない人間の知恵、知識による思弁的なものだけで形成された学を人間の数である666と言い、神学も聖霊の教えでないならこれに属す。これは、永遠のいのち、いのちに達することのできない、肉身の営みのための手段に過ぎない。これは肉に属するものであるゆえ神とは何の関係もないことである。このように聖霊の教えと導きでないものを人間の数、即ち獣の数666と言う。つまり聖霊と律法の教えでなく、人間の知恵と知識だけに依存した教えを言うのである。
このように人間の知恵と知識が王座を占めるこの時代に、神 (創造主) を信じる聖徒として、神の御心通り世の光、塩の役割を果たすというのは、律法的、道徳的規準をもって良い行ないをするのではなく、聖霊の教えによって歩むことが光、塩の役割を果たすことである。こうして聖霊を通し啓示によって悟った神の御心を、世に表わすことが、光を放つことである。
ハレルヤ! ただ主に世々限りなく栄光あれ アーメン